骨を砕く③

2021年12月30日 晴れ

 

病院訪問から1週間が過ぎた。私は今、銀行にいる。

 

入るなり、客らしい客が誰もいない。銀行や農協や郵便局で、先客が誰もいないという経験がなかったので、ちょっとひるんでしまった。

窓口の向こうには行ったり来たり座ったりしている行員たちの姿が見える。各窓口の上に掲げられた電光掲示板にも、それぞれ数字が赤く光っている。とりあえず順番を、私に番号を振ってください、と思いながら真ん中の四角い機械に近付くと、行員と思しき黒いスーツの女性に声をかけられた。

「ご予約はおありですか」

予約とな。特に予約を取っていないという旨を伝えると、飛び込みだとだいぶ待たせてしまうかもしれない、と申し訳なさそうに言われた。誰もいないのに?

コロナ禍だから、接触を避けるために、口座開設などはあらかじめホームページから来店予約を推奨しているのだという。つまり、ここにはもう番号を振られた透明な人たちがひしめきあっているのだ。

そうなんだあ、と内心がっくり肩を落とす。どのくらい待つことになるのか参考までに聞きたい、と言うと、用件を聞き返された。用件。私の用件は、単語ひとつで表すなら、何と言えばいいんだろうか。

 

叔父がいまして。独身で、あ、叔父が、独身です。95歳で、入院してしまったんですが、意識がなくてですね。多分、その、もうあれなんじゃないかと。それで、銀行口座をいずれどうにかすることになると思うんですけど、それって、どうしたらいいのか。いや、どのタイミングで。タイミングっていうか、その、えっと、要するにですね、それって、一言でなんて言いますかね?

 

小学校高学年くらいなら、多分今の私よりずっとちゃんと喋るだろうな、と思えるくらいつたない説明をした。説明しながら、自分があさましく見えないようにするにはどうすればいいのかまでを考えるものだから、より一層不審な喋り方になる。

今の所、多分、私は、叔父が亡くなるのを待ち切れずにどうにか金を引き出そうとしている輩だ。しかも立場は「姪」。3親等というのは、微妙に遠い。そうじゃないんですよ。備えとしてですね、これからきっと起こること全部、私がやらなきゃいけないから、何かあっても慌てたくないっていうか、その。何が「そうじゃない」んだか。

 

行員は、うんうん、とうなずきながら私の話を聞き、それから、傍にあった四角い機械の液晶に並んだいくつかのボタンのうちのひとつを、ぺん、とタッチした。機械が小さな感熱紙をべ、と吐き出す。

 

「相続関連のご説明になりますね。ざっくりとした流れになりますが、本日ご説明できると思います」

 

行員は、わかってますよ、という顔をした。と、思った。何が、どこまで伝わったのかはわかりかねるが。いや、いいじゃないか別に、高齢叔父の遺産を待ち切れない中年女でも。違法じゃないし。安いプライドだ。

 

座して待て、と言われたので、大人しく待合の合皮(っぽい)ソファに腰掛けた。

人が隣り合わないように「×」の書かれた紙が一席おきに貼られている。誰もいないんだから、どこに座ったって誰の隣にもならない。接触しない。でもきちんと「×」を避けて座った。

 

銀行の中は、白っぽくて明るくて、でも病院の白っぽさとは違う。観葉植物の緑色と、銀行自体のブランドカラーであろう緑がリンクしているように見えて(コーディネートされてるの?)、それがなんだか余計に、CG初心者が作ったみたいな、つくりものっぽい印象を与えている。個人が作った脱出ゲームにありそうな、つるつるした感じ。

もしかしたら帰りの自動ドアが開かないかもしれないな。番号を入力する装置がいつの間にか壁にへばりついていて、手がかりを探すのだ。絨毯をめくったり、観葉植物の鉢の裏側を見たり、ぶら下がっているマスコットの高さを確認したりして、暗号を探す。まさかそんなに待合時間が発生するとは思ってなかったから、手持ちの本など何もない。スマートフォンTwitterを見たりもしてみたが、それもすぐに疲れてしまって、脱出のパスワードを探す妄想をして過ごした。

 

電光掲示板が「ぴんぽーん」と鳴るのを予想していたが、なんと肉声で呼ばれた。窓口のが並ぶ横の、狭い奥まったスペースに招かれる。グレーのスーツを着た、とても若い(新卒では?)行員が愛想良く挨拶してくれた。大きな観葉植物を背に、向かい合って腰掛ける。緑色の紙のファイルを手渡される。開くと、「相続手続きのご案内」とプリントされた紙が入っていた。「このたびは誠にご愁傷様です」。申し訳ない、まだ生きているんだ。

 

最初に対応してくれた行員にしたのと同じような話をする(今度は簡潔に賢そうに話すことができた)。若い行員はちょっと眉をひそめて「叔父様、ご心配ですね」と言った。これはデリケートな仕事だな、振る舞いに気を付けないといろいろ言われたりすることも多そうだ。

 

相続というのは、被相続人が亡くならないことには動くことはできない。それ以前に何かするなら、成年後見人とやらにならねばならないそうだが、それには当の叔父の意識と時間が足りない。生前にどうしても財産をどうにかしたいというわけでもないので、亡くなった後のことを想定して、相続手続きについて教えてもらう。途中、若い行員は確認のために何度か席を外し、その度に私は数分ぼんやりすることを繰り返した。

 

基本的には専門部署と書類を郵送し合って完結するものらしい。本来なら、叔父が遺していく(予定)の、3人の老姉妹が相続人となるので、そのうちの誰かが手続きをするものなのだが、揃いも揃って、嫌だ、できない、と言う(うち1名は認知症のため意思疎通が難しいし)。代理人ができるものなのかと問うと、ひとつふたつ、書類と手間が増えるが、身分を証明できれば可能だそうだ。良かった。良かったのか? そうでなくてもパワーに溢れた手のかかる小学生を2人育てていて手一杯なのだ。そもそも事務仕事が壊滅的にできないこの私が、書類のやり取りを銀行とするなんて、本当にできんのか?

でも、きっとこれからお金がかかる。入院費、葬儀代、今住んでいる家の家賃、光熱費、家を引き払うならその作業も、きっと私1人ではできないから業者を探すことになるだろう。それが、叔父の持つ絶妙にちょうど良い額の貯金で賄うことができるのだ。やるしかなかろ。

 

幾度目かの「ぼんやり」を経て、なんとなく決意を新たにした私に、若い行員は2枚の名刺と電話番号を授けてくれた。自分と、自分がいない場合にフォローをしてくれる者だそうだ。

「何かありましたらご連絡くださいね」

ふんわりオブラートにくるんでくれたが、亡くなったら電話一本で必要な書類を一式私に送ってくれる、ということだ。私はお辞儀をした。

 

最後にくれた、猫のマスコットが印刷されたポケットティッシュをバッグに収めるところで、実母から着信があった。銀行でもろもろ相談したよ、と報告すると、ぼんやりのお前にしては行動が早いじゃないか、とお褒めにあずかった。一瞬むっとしたが、すかさず「手間をかけて悪いわね、頼りにしてるから」などとも言われて何も言えなくなってしまう。年明けには子どもらと夫を連れて顔を出すことになっている。そのときにゆっくり説明するから、と言って電話を切って、待合に戻ると、白いソファに座って、夫がすやすやと眠っていた。

 

年末の買い物ついでに連れてきたのをすっかり忘れていたのだった。本当にすまない。

骨を砕く②

2021年12月21日 曇り

 

面会は2人だけ、と言われていたが、なんだか私と従姉妹のリエちゃんも病室に入って良い、ということになった。病院が寛大なのか、ルールを破ってもいいくらい最期が近いのか。

病室に入ると6人部屋の6人はカーテンできっちりと区切られており、その入り口から2番目のベッドに叔父が横たわっていた。寝具の眩しい白色の中に小さな肌色の顔が埋まっている。布団ばかりが目立って身体の膨らみが感じられない。叔父は口を開いて目を閉じている。少し呼びかけたが無反応だ。

「寝ちゃってるみたい」

母が言って、4人でもう一度叔父の顔を覗き込んだ。安らかな、と言って差し支えないくらい平和な寝顔だった。小さくしわしわになって、老衰なんて言われて、それでも生気に満ちているように見えた。病棟内は、生活する人の大半がペラペラの入院着か半袖のスクラブを着用していることに合わせているのか、非常に暖かい。それに伴って叔父の寝顔も少し頬が上気していたから、余計にそう見えたのかもしれない。

なんとなくそろそろと足音を立てないようにして病室を出ると、ソーシャルワーカーのイノウエさんが我々を待っていた。

「最近はうとうとなさっている時間が多いみたいです」

気遣わしげなニュアンスで言う。私は叔父から生気を感じたが、実際はあまり良くないのかもしれない。私は勘違いが多い。良いものを悪く取って絶望したり、悪いものを良いととって平気な顔をしていたりする。

聞けば入院したのは12月の頭だと言う。そこから20日ほど経っていた。

 

「具体的な説明をしたい」と言って、イノウエさんは我々を先ほどまでいた休憩スペースまで促した。「具体的な説明」は先ほど闊達な医師から聞いたはずだが、と思ったが、説明が始まってから、この「具体的」は「金」の直接表現を避けた言い方だとわかった。なんと上品な人か。そうだよな、こんな手厚く世話してもらって金を払わぬわけにはいかないよな。ええもちろん払いましょう。払える範囲で。

 

叔父はこのまま病棟にいるわけにはいかなくて、院内の療養エリアに移動するということだった。そこでは月額の入院費とおむつ代がかかる。容体が悪くなって医療措置を取った場合その費用は上乗せとなるが、上限が決まっていて一定以上は取られないということだ。我々は「ある程度の苦痛を取り除く処置は望むが延命はしない」ということで合意した。

イノウエさんは鈴のような声で内訳を説明しながらメモに小学校の先生みたいな綺麗な文字で書き留めてくれる。

白くて新しくて大きくてドアがピンクだったり黄色だったりしてとても立派な病院だが、思いがけずお値段はそんなに高くない。よっぽど激しくおむつを消費しない限り、叔父が現在もらっている年金の範囲に収まる額であった。一同それぞれ密かに胸を撫で下ろすのがわかった。ここにいる者は皆、生活に困っているわけではないがそれほど裕福なわけでもない。誰かを「金銭的に面倒を見る」ことに少し怯えていたのだった。

 

聞かなければならない話も全部聞いたし、辞去する流れになる。使っていた椅子を片付け挨拶をして4人、エレベーターへとぼとぼと向かう。叔父の病室の前を通る時、母に「もう一度顔を見とく?」と聞いた。

母やヨウコ叔母にとって、ここは自宅から遥か遠い場所だ。「ちょっと行ってこよう」と思える距離ではない。叔父があとどれくらい生きるのかはまったくわからない。1年、2年とここで暮らしていけるかもしれないし、あまり長くはもたないかもしれない。95歳という年齢を考えると、次にここに呼ばれるのは亡くなったときという可能性の方が高い。たくさんの「もしや」を考えてかけた言葉だった。

母とヨウコ叔母はちょっと顔を見合わせて、首を振った。

「いいや、もう、わかったから」

そう言って、ピンクの扉の前をゆっくりゆっくり通り過ぎた。

 

リエちゃんとヨウコ叔母が乗ってきたのは小さくて四角くて黒い軽自動車だった。後部座席のドアを開けて乗り込むと、なぜか足元にほうじ茶のペットボトルが転がってくる。未開封。拾い上げて、助手席に座るヨウコ叔母のシートベルトをつけてやっているリエちゃんに振って見せた。

「ごめんごめん、ここんとこ挿そうとしていつも失敗すんだよね」

運転席の脇の物入れを指し示した。ごすん、と音を立ててペットボトルを差し込む。よし、と彼女は言ってナビに住所を入力し出した。

 

叔父はおそらくもう病院から自宅へ帰ることはない。ということは、今住んでいる場所をどうにかしないといけないということだ。歩行器を返却するついでに住まいの現状を確認しようと、女4人小さな軽自動車に同乗して向かうことになった。

ナビを確認して、リエちゃんは頭の上にのっけていた眼鏡をあるべき顔の中央に下ろした。車は病院を後にする。病院の外周をぐるりとまわらないと幹線道路の望む方向に乗れない、とナビが示す。彼女(ナビは女声だった)に従って車を走らせると、すぐに問題にぶちあたった。通るべき道が工事で塞がっている。

「こいつすぐ嘘つく」

リエちゃんがナビに毒づいたが、工事はナビにとっても不測の事態だろう。このまま通り過ぎてしまえばまたリルートしてくれると踏んでまっすぐ進む。「この先、右折です」「この先、右折です」「この先、右折です」。

 

「ほらまたここじゃん!だからここは通れねんだっつの!」

またしても工事中の看板の前に車を戻され、リエちゃんがキレた。通り過ぎるとまた右折しろとナビが一本調子に告げる。言われた通り右折して右折して、畑道の途中で停車した。

「今来た道を逆に進めばあれに乗れる」

リエちゃんはサイドブレーキを引いて振り返った。リアウインドウの向こうの道路を指差す。ふん、と決意したように鼻を鳴らすと、再びサイドブレーキを下げ、ギアを「R」に入れた。

道幅はすこぶる狭い。舗装なんてされていなくて、両側が斜面になっていて、畑道から一段低いところに耕された土が広がっている。丈の短い軽自動車でも真横になるには尻が少し畑の斜面に沈んでしまうくらいだ。リエちゃんはものともせず尻を斜面に差し込んだ。車体が傾く。後部座席に座っている私と母の身体は重力にひっぱられてシートに押しつけられる。ハンドルをいっぱいに切る。それでもこのままアクセルを踏んでターンするには道幅が足りないかも。今度は車の頭が畑に突っ込むかもしれない。思わず運転席の肩をぐっと掴んだ。

「よし、行ったれ!」

うおん、と小さなエンジンが唸った。車体は少し左に傾いで、でも畑に落ちることなく進む。片側の車輪を浮かせながら転回して逃げ出すルパン三世フィアットが浮かんだ。実際、車輪が浮くほど傾いてはいない。

 

いえー、と彼女は小さく達成感を表現した。かっこいいな、私にはできない運転だ。あんたねえ、とヨウコ叔母が少しぼやいたが、おかげ正しい進路をとることができたということはわかっているのか、あまり大きな声は出さなかった。ぎゅっとストールの布地を掴んでいた母がそうっとため息をついていた。

 

出だしは一大スペクタクルだったが、病院から叔父の住む公団住宅までは、ものの15分の距離だった。同じような建物が並ぶ敷地内をゆっくり進みながら、白い建物の壁に書かれた号数を確認する。団地って、順番通りに並んでいるようで、急にそれが途切れて続きがどこだかわからなくなったりする。くねくね同じ道を2周して、目的の12号棟の前に駐車すると、病院で会った介護支援員のサイトウさんが建物の影から姿を現した。やっぱり小走りに近づいてくる。ちょうど我々も今着いたところで、と言ってぴょこんと頭を下げた。家の鍵は病院から引き取ってきた叔父の荷物の中に入っていた。

 

叔父の部屋は最上階の真ん中にあった。戦後しばらくして、生き残った家族で都内から移り住んだ関東の端っこの公団住宅。祖母が生きていた30年ほど前まではよく訪問していたが、叔父1人になってからは来たことがなかった。その間に「公団住宅」は「UR賃貸」と名前を変えて全部そっくり建て替えられたという。なるほど、私の記憶にある4階建のおんぼろアパート群は、すっきりと背の高い真っ白なマンション群になっていた。家の中も、綺麗な板の間と和室の2DK。家賃4万強、と聞いていたがお値段以上の綺麗で丈夫そうな部屋だった。

「なんか…時計多くない?」

リエちゃんが言った。確かに、玄関からダイニングに入って、襖が開け放たれて地続きになっている和室を見渡すと、やけに時計が目立つ。白い壁掛け時計、からくり時計、黒い目覚まし、赤い目覚まし、重たそうな金属の置き時計。ポケットに入るくらいの小さな小さな置き時計もある。

「時計がお好きだったみたいです。よく時計屋さんにも通ってらしたし」

「ああ、好きだったわねお兄さん、時計。腕時計も昔から安物ばっかり何本も持ってた」

和室の小さな棚には、カシオとロンジンの腕時計が綺麗に並べて置かれている。ふうん、と私は相槌を打った。時計はどれも埃ひとつ付いておらず、正確に時間を刻んでいた。

 

畳まれていない洗濯物、新聞の束、封の開いた煎餅、黒飴、虫眼鏡、先の丸い鉛筆。部屋の中には生活感があったし雑然としていたが、それなりに片づけられていて、叔父がついこの間までちゃんとひとりで生活をしていたことが感じられた。ゴミに埋もれてもいないし、同じものを延々と買い続けたりもしていない。本当に普通の、「一人暮らしの部屋」。

サイトウさんと我々は荷物を下ろすと思い思いの場所に座った。年寄り組はダイニングテーブルの椅子に、中年組(サイトウさん含む)は畳に腰を下ろす。歩行器返却の書類にサインをし、介護支援契約解除の書類をもらった。

「イワブチさん、本当にしっかりされていて、身の回りのこともきちんとされていましたし、穏やかで優しくて素敵な方で…」

でした、と言いそうになったのをサイトウさんはそっと言い直した。

「最近は少し忘れっぽくなってきたところもあったので、ずっと請求書払いだった光熱費を銀行引き落としにする手続きをして、通帳もね、いくつかあったものを貯蓄用と生活用の2つにまとめたところだったんですよ」

そう言って、サイトウさんは棚からファイルを取り出した。あらゆる契約書と通帳と印鑑をひとつにまとめてくれていたのだ。介護支援員とはこんなこともしてくれるのか、なんともありがたい。

「新聞は今月の頭に解約してまして、生命保険などの類も特にありません。ネットもひいてませんでしたし、光熱費と家賃以外に発生する固定費はないと思います」

一番近くに座っていた私がファイルを受け取った。ガス会社、電気会社、水道、NTTの領収書が収まっている。2冊ある通帳のひとつを開く。こちらは年金の振込と固定費の引き落としが繰り返され、たまに現金が引き出されている。生活費だったのだろう。毎月の収支に大きな変動はなく、月末の端数が薄く降り積もるように貯まっている。叔父は酒は多少飲むがギャンブルはやらない。羽目を外すようなこともない。綺麗に繰り返される数字のルーチン。なるほど、生活に困るようなことも豪遊するようなこともまったくなかったようだ。

もう一冊の通帳を開く。リエちゃんが私の手元を覗き込んで、お、と声をあげた。

「結構あるじゃない」

貯蓄用だったとみられる通帳には、おそらく入院後この部屋にかかっている残りの固定費、入院費、ここを引き払う場合の片付け費用、そして来たる別れにかかるだろう費用を払ってちょうどなくなるくらいの絶妙な額が残されていた。

「ほんとだ」

「立派」

年寄り組も寄ってきて、口々に言う。

「とことん迷惑かけない人ねえ」

感心したように母が言うと、サイトウさんが誇らしげに胸を張った。

「そうなんです。95歳まであれほどしっかりと一人暮らしされる方、なかなかいらっしゃいません」

老婆たちは兄が誉められて嬉しいのかにこにこしている。高齢化とコロナ禍でここ数年は電話でやりとりするだけだったと言う。怪しげな宗教にもはまらず、浄水器や壺を買わされることもなく、オレオレ詐欺にもひっかからず、つつましく好きなパンや惣菜を買い、散歩し、たまに本を読んだり宝くじを買ってみたりする生活。さぞ穏やかだっただろうな、と想像した。

 

叔父は12月の頭に訪問医師が診察した際に具合が悪くなって救急車に乗ったということだった。サイトウさんが貴重品と着替えを少し持って一緒に行ってくれた。それきり、この部屋に戻る見込みはなくなり、今数少ない最後の身内がここに座り込んでいる。小山を築いている洗濯物も、広げられた新聞紙とその上に乗せられた虫眼鏡も、全部全部その日のまま。今日まで誰にも踏み込まれず透明な樹脂で固められたみたいに止まっていたのだ。私はマリーセレスト号を思った。

「さ…こうやってちゃんとお身内の皆さんが集まってくれて、本当にお幸せですね」

サイトウさんは涙ぐみながら言ったが、「最後に」と言いかけたのを私は聞き逃さなかった。完全に失言だが気持ちはわかる。この人はこういうふうに幾人もの人を迎えて送った人なのだ。もう叔父は人生のラストに向かい始めてしまった。この部屋も、今の状況も、今日という日全部がそれを示していた。だからもう、誰もそのことについて言及しなかった。

 

それからもう少しだけ叔父の思い出話のようなことをして、サイトウさんは帰って行った。他人と喋って少し疲れた我々が全員黙ると、時計たちがぶんぶんかちこち時を刻む音が部屋に響く。叔父はこの時計たちをうるさく感じなかったのだろうか。それとも、これなら寂しくないと思ったのか。もしかしたら大分耳が遠くなっていたのかもしれない。

私は畳に足を伸ばした。尻の後ろに手をついて、あー、と声を出すと、母が私に向かって黒い物体を差し出した。持ち手が黒くて、薄い板に穴が空いているタイプの、ディンプルキーと呼ばれるもの。この家の鍵だ。

「あとはよろしくお願いします」

後始末はお前がやれ、という意味だろう。思うように動けない老女2人と、リエちゃんは動ける中年だが、フルタイムノーリモートワーク。ぶらぶらフリーランスなんかやってる私が一番暇に見えるのは当たり前だし、実際フットワークが軽いのも私である。なんとなくそうなるだろうな、と思っていたので、素直に鍵を受け取った。全部で3本あったので、念の為1本をリエちゃんに、もう1本を母に預けた。

何からやればいいんだろう。公団へ退去の連絡をするのが先か、多少金を使っても片付けはもうまるごと業者に頼みたい。スマートフォンで遺品整理業者を検索する。「遺品整理 片付け 査定」。1K 89,000円〜。お掃除もプロが致します。出張査定無料。

 

私が検索結果をたらたらスクロールする横で、あちこち引き出しを開けたり閉めたりしていたリエちゃんが、小さな紙束を引っ張り出してきた。

「ねえねえ見て。どれか当たってないかな」

夥しい数の宝くじとスクラッチくじだった。スマートフォンは放り出して、畳に広げる。スクラッチはその場で削って当たりを確かめるはずだから望みは薄い。宝くじもよく見ると交換期限の過ぎているものばかりだ。放ったスマートフォンを引き寄せて、今度は数枚あった最近のものだけ当選番号を調べてみる。老婆たちはいつの間にか持参のクッキーを取り出してもぐもぐやっている。

「うーん…全部で2800円」

だよね、とリエちゃんは笑った。片付け費用に入れとくよ、と私が言うと、母が立ち上がった。

「形見分けしよう」

まだ死んでないよ!とリエちゃんがすかさず突っ込んだが、どのみちこの部屋はなるべく早く引き払わねばならないのだ。こうしている間にも家賃も光熱費もかかっている。荷物を整理する手配を始めなければならない。持ち出せるものは持ち出して、売れそうなものは売って片付け費用に充てるべきだ。そんなこと冷静に考えられないほど死にゆく叔父の姿にダメージを受けている人間はここにはいない。100年近く生きて、静かに人生を閉じようとしている叔父には、どちらかというと達成感のような、労いの気持ちがあったし、この終いを清々しいものにしてやりたいと思っていた。少なくとも私は。

 

家探しするほど物がないので、ぱっと見て欲しいものを言っていくスタイルにする。最近買い替えたらしい真新しい薄いテレビとからくり時計をヨウコ叔母が欲しいと言い、母は祖母の位牌がどこかにあるはずだからどうにかしないといけない、と言った。長年叔父が趣味にしていたカメラがどこかにあるかもしれない。昔の写真や収集していた切手も。全員でまだ中を見ていなかった玄関脇の小部屋へ移動した。

 

四畳半にクローゼットのついた小部屋は、本とファイルの詰まった棚で四方を囲まれていた。床にはクッキーや煎餅の缶がたくさん。中を開けるとすべてネガだった。取り出して電気にかざしてみるが、誰が映っているのかはよくわからない。私の腰の高さまで積み上げられた缶たちの全てにネガがぱんぱんに詰まっていて、でも現像した写真は、額縁に入れられ壁にかけられた2枚だけだった。どこかのお祭りを撮ったものと、青空に顔を向けるコスモスを撮ったもの。どちらも何かのコンクールで賞を獲ったやつだと母が教えてくれた。

叔父はずっと昔から写真が趣味で、足腰が丈夫な頃は三脚とカメラを携えてあちこち撮影旅行に行っていたらしい。幼い頃、何度かカメラを持った叔父と散歩に行ったことがあったのを思い出した。ニコンフィルムカメラ。レンズの蓋を無くさないように紐でくくってあった。カメラのフィルムの替え方を教えてくれたのも叔父だった。フィルムを巻き戻すクランクが折り畳まれてぱちりと綺麗に収まるところが好きで、せがんでフィルム替えするときはいつもやらせてもらった。あのカメラはまだあるのかな。

老婆たちは部屋の隅にあった「にっぽんの名曲」のCDシリーズを見てきゃっきゃしてる。夜中の通販番組で見たような、数十枚のCDが3段くらいの専用のボックスにきっちり収まっているやつ。あれ、叔父さんはフリーダイヤルに電話して買ったんだろうか。

 

折戸が開け放たれたままのクローゼットを覗くと、大きなナイロンのカメラケースがふたつ置いてあった。しかし中身は空で、そのカメラケースの外に、小さなフィルムカメラと望遠レンズがひとつだけ置いてあった。どうやら自分でカメラは処分してしまったらしい。私はフィルムカメラを手に取った。裏蓋を開けてみたが、フィルムは入っておらず、とても軽い。子供の頃に見たフィルムカメラにそっくりだったが、そのものかどうかはわからなかった。クランクを引っ張り出して回してみたが、手応えはなく、からから空回りする音だけが微かに聞こえた。

 

ヨウコ叔母がCDシリーズを持って帰りたい、と言い出し、リエちゃんが嫌そうにしている(かなり重たそうだ)。私はカメラは元の場所に戻して、本棚からカラーブックスを1冊と、ロバート・キャパのエッセイを引き抜いた。これを形見とする。

骨を砕く①

2021年12月21日 火曜日 晴れ 

 

病院の最寄りとされる在来線の駅はふたつあって、病院はそのどちらからも車を使わなければ厳しい距離にあった。私と同じ路線の、もっとずっと山奥からやってきた母と新宿で待ち合わせて昼食を取り、そこから電車を乗り継ぐ。急行への接続がいまいちで、何度検索しても各駅停車に乗って行くルートしか出てこない。諦めて各駅停車を使うことにした。

平日昼間の下り電車は乗客が少なくて、沿線にいくつかある大学や高校の生徒らしい若者がちらほらのったり降りたりするくらい。座った座席の向かい側の窓から降り注ぐ暖かい太陽光にうとうとしたり、ぽつぽつどうでもいいようなおしゃべりをしながら目的地まで揺られた。

 

「病院の送迎車がある」という母の言葉を頼りにロータリーで停留所を探したが、特にそういった看板などはない。数年前に足を悪くした母を引っ張り回すのもどうかと思ったので、ベンチに座らせてぐるりとロータリーを一周した。駅の階段を降りてすぐに路線バスの停留所。コンビニ、銀行、コージーコーナー、交番、マンション、自転車置き場、タクシーの待合。やっぱりない。張り紙もない。えーどうしよう。タクシーもいない。

一周する間に色とりどりのランドセルを背負った大小の小学生に次々とすれ違った。彼らは皆一様に駅の階段を駆け上がっていく(小学生の移動は走るのが基本)。駅をくぐって線路の向こう側へ帰る子たちなのだろう。駅の中を通るなんてちょっとかっこいいな、と思った。頭の片隅に小学生の頃の私が出てきて羨ましい気持ちになる。14時20分。うちの子供たちももうすぐ下校時刻だ。

ロータリーの反対側のベンチにぽつりと座る母の姿を確かめた。白髪まじりでグレーに見える頭。背中は曲がっていないが大分背が縮んだ気がする。わかりやすく老いた。2年前に股関節の手術をしてから歩くのが少しぎこちなくなって、もう私とは同じ速度では歩けない。「こーんなすっごい」金具をまるっきり壊死した骨と入れ替えてリハビリもして一度は元に戻ったが、今度は膝が悪くなってきたと言う。手術をすれば良いそうだが、病院の大部屋で築かれる入院患者コミュニティが面倒だからギリギリまで我慢したいそうだ。その気持ちはわかる。歩けなくなるとボケるから、本当にやばくなったら手術することにしよう、ということにして、今は毎日ゆっくりゆっくり歩いている。

 

あきらめてタクシーを呼ぶか、と思って、最後にスマートフォンで病院のホームページを開いた。プルダウンメニューから「交通案内」を選択する。「無料送迎バスでご来院の方」という項目があったのでそこまで飛ぶと(タップするとページがずるずるとスクロールした。長い1ページの中でid指定してあるんだな)、どうやら母の言う通り病院が出しているバスが本当にあるらしい。掲載されている時刻表によると、1時間に1本の運行。次は14時半の出発となっている。停留所は今、母が座っているベンチのすぐそばだ。なんだよ張り紙くらいしとけよ。スマートフォンの画面には「14:28」と表示されている。私はロータリーの向こうの母に電話をかけつつ早足で移動した。

 

やってきた「バス」は横っ腹に病院の名前が貼り付けてある白いハイエースで、乗客は私と母の2人だけだった。なんだかがっかりした気持ちで揺られる。反対に母は、住宅街を縫うように走るのを「抜け道、抜け道」と言って嬉しそうにしている。変なことではしゃぐ人だ。抜け道なんかじゃなくて、純粋に正規のルートなのかもしれないじゃないか。

 

たどり着いた病院は枯れ果てた大地の真ん中に建っていた。事前に確認したホームページには、綺麗なグリーンの中にそびえ立つぴかぴかの白い建物が掲載されていたはずだが、あれは夏の畑であったか。畑がまるハゲになってしまうとここには病院以外には道路しかない。「荒涼」とはこのことか、とベージュの大地と灰色の空のツートンを眺めながら思った。

 

この真新しい病院には、叔父が入院している。母を含む三人姉妹の上の兄にあたる。上から95歳、93歳、90歳、77歳の高齢四兄妹。

 

病院施設は全てが新しく清潔だった。天井から吊られたビニールシートに囲まれた受付に母が自分の名前を告げて、叔父を担当しているソーシャルワーカーを呼んでもらう。紺色の、銀行員みたいな制服を着た事務員が後ろをむいて電話かける。しばらくガサゴソと通話相手とやり取りした後、「担当医師の時間が空くまで少しかかるので、待っていてほしい」と告げられた。ソーシャルワーカーと医者、セットで会わなければならないらしい。待ちになるのかぁ、と思ったが、こちらも実はまだ揃うべきメンバーが揃っていない。母と2人、大人しくソファに腰掛けた。

「3時って言ったのに」
母がぼやく。病院に向けてなのか、待ち合わせている従姉妹と上から2番目の叔母に対してなのか。柱にへばりついている掛け時計は15時10分を過ぎようとしている。
「車なんでしょ。混んでるんじゃないの?」
従姉妹と叔母に対しての言葉だと解釈して私は答えた。都内から従姉妹が叔母を乗せて車を運転してくると言う。うーん、と母は不満そうに唸った。せっかちなのだ。昔から待ち合わせの5分前には到着しているタイプの人だった。手持ち無沙汰なので、近くの自動販売機で水とコーヒーを買った。水は私、コーヒーは母に。

 

自動販売機の横の壁一面がガラス張りになっていて、外がよく見える。「ソーシャルディスタンス」と書かれた張り紙があって、パイプ椅子が不自然な間隔で整列している。意図はわかるし、必要な距離なのもわかるが、「不自然である」という気持ちは消えない。「不自然である」ことこそがこのコロナ禍では「自然」になっているということも理解はしている。私たちはそれぞれ隣同士(だけど遠い)パイプ椅子を選んでまた座った。

 

待合にはちらほら人がいる。午後の診療はもう始まっているのだろうか。みんなマスクをして、大人しく座っている。ぼんやりしていると、奥の廊下からやってきた事務員が、受付の前のソファに長いこと取り残されていた青いマフラーを取り上げて「こちら、違いますか?」と聞いてきた。違います、と答えると、また離れた別の待合客に同じことを聞いている。本当に1人ずつ聞いて回るのかそれ。

 

ペットボトルの水を半分ほど飲んだところで、正面玄関から小柄な女性が駆け込んできた。黒いダウンジャケットにリュックサック。白いスニーカー。彼女がキョロキョロと待合を見回すと、母がゆっくりと立ち上がった。目が合う。おずおず、といった風情で彼女はこちらへ近づくと、「イワブチさんでいらっしゃいますか?」と尋ねた。
母は、はい、と答えて、お辞儀をしてからしゃんと背筋を伸ばした。堂々たる佇まい。家を代表する者の風格を見せている。家を出てもうすぐ20年になる現在、母は老い、年金暮らしになり、一人暮らしになり、何かと私が庇護する必要のある存在になったはずなのだが、こういうときに「ちゃんとして見せる」気迫は変わらない。対する私は半歩下がって「娘」となる。条件反射だ。

 

リュックサックの彼女は「介護専門支援員」と名乗った。巨大な名刺を渡される。通常の名刺の2倍くらいある大きさだ。左肩に花のイラストが印刷されており、「F市指定居宅介護支援事業所 サトウ タカコ」とあった。私が大きな名刺を珍しそうに裏表すると、サトウさんは笑って「目のお悪い方にお渡しすることが多いので」と言った。

病院のソーシャルワーカーと名乗る人物も現れ、サトウさんと母と私の4人になる。従姉妹と叔母はまだ到着しない。身内以外、3名以上の面会はできないという。サトウさんはそれを承知していたようで、私たちに事務連絡するためにわざわざこの荒涼とした大地に建つ病院まで来てくれたそうだ。叔父はもうおそらく自宅に戻ることはないので、介護支援契約は解除になっている。レンタルしていた歩行器を今日引き上げたいと言う。こちらの面会が終わったら連絡する約束をすると、サトウさんは来た時と同じように駆け出していった。それほど忙しいのか、それともそもそもそういう移動の仕方をする人なのかは判然としなかった。

 

待てど暮らせど従姉妹と叔母は現れない。痺れを切らした母と私は、面会はともかく先に医者の話だけでも聞いてしまうことにした。

 

ソーシャルワーカーは「イノウエ」と名乗った。白衣を着ていたがお医者さんというわけではなさそうだ。患者の社会的な支援を行うのが仕事内容だそうだが、今ひとつぴんとこない。ひとまず敵か味方かで分けたら味方に入る人なのだろうと判断する。言うことはちゃんと聞いておこう。

ひとつ上の階に案内されると、ナースステーションで面会カードに名前を記入した。すぐに面会できるものと思っていたが、ここでもなぜか待ち時間が発生する。本人に面会する前に主治医が病状を説明したいらしい。病院と役所相手は空白の時間が多数、水玉みたいに存在するように思う。別に急いでいるわけでもないので良いのだが。

 

フロアの共有スペースは円形で、壁にぐるりとソファが備え付けられている。その端の窓際に腰掛ける。ペラペラの入院着を着た患者がちらほら、新聞を読んだり面会に来た人とおしゃべりをしたりしている。本棚には漫画と少し前に流行った小説、それから週刊誌。車椅子の老婆の膝にはピンクの膝掛け。老婆は首を垂らして自分の足元を覗き込んでいる。履いているサンダルを気にしているようだ。灰色の、いわゆる「便所サンダル」と呼ばれる形のものだ。足の甲にあたる太いストラップ部分を爪で擦っている。最初は軽く、だんだん擦る力が強くなって、自分の爪の先を凝視しようとしているのか、頭がぐっと下がる。入院着の上からでも背骨が数えられるほどだ。車椅子って、もしかして前のめりにひっくり返ったりする?

 

危ないのかもしれない、と思った時、老婆の背後から看護師が現れた。ひざまづいて「どうしたの?セロテープくっついちゃってるね」と言って、サンダルから何かを剥がしてやる。つまみあげて2人、にっこりと笑った。病院とはかくも優しい時間の流れる場所なのか。

 

ナースステーションの向こうの廊下から、医者が走ってきた。白衣の下に濃い青色のユニフォーム(テレビドラマで医者がよく着てるやつ。訊いたら『スクラブ』という名称なのだと教えてくれた)、首からぶら下げたIDカードを白衣の胸ポケットに入れている。どこからどう見てもお医者さんだ。我々は看護師に手招きされて、奥の小部屋に通された。パソコンと小さなデスクだけのものすごく狭い部屋だ。母を医者の斜め後ろの椅子に座らせ、私は反対側のドアを開けて、そこから渡された椅子を廊下にはみ出すように置いて腰掛けた。こんな小さい部屋見たことない。医者とパソコンと患者ひとりしか入れないスペース。そこに医者とパソコンと母と私、看護師とソーシャルワーカーが詰め込まれて溢れている。

 

「ええとねえ、イワブチキイチロウさんね、95歳!ね!」
と医者は元気よく言った。パソコンでカルテを見せてくれる。よくわからない。
「直接何が悪いって言うとねえ…不整脈が出てるね!あと、癌ね!前立腺のやつ。あとはねえ、全体的に数値が低いねえ」
はあ、と我々は相槌を打った。医者ははきはきと喋る。
「これが原因、という原因はないね。癌はね、ちょっと治療に来てたんだけど、やめちゃったみたいね。でもその癌が特別悪さしてるかと言ったらそうでもない。今の状態は要するに老衰だね」
ここで母が口を開いた。
「ちょっと前の電話で言ってたんですよ『癌治った』って」
びっくりした。そんなわけないだろう。
「もちろんそんなわけないでしょって言ったんですけどねえ」
ここで先生は、あっはっは、と闊達に笑った。なんとなく、過疎の地の診療所の先生のような笑い方だ(ドラマなどからのイメージ)。「歳で進行も遅かったからね。でもね悪くなったのは癌のせいじゃないよ、老衰」
老衰、を殊更に強調した。そうとしか言えないということなのだろう。95歳。95年間稼働し続けた身体。
母はうんうん、とかすかに頷いてから、わかりました、と言った。
「説明は以上です。会いますか?今寝てるかな。ここ来た時はねー、暴れたりしてたんだけど」
え!と母が大声をあげた。
「暴れたんですか?お兄さんが?」
「そうね。どこだかわからなくて怖かったんじゃない?せん妄出てたし、よくありますよ」
「暴れるなんて信じられない。ものすごい大人しい人で」
「よくあるんですよ。よくあることなんです。みんなそうなるって言っても過言じゃない」
はああ、とため息のような返事をして、母はよろりと立ち上がった。肩にかけていたストールがずるりと滑り落ちるのを受け止めて、しばらくこねくり回していたが、結局折りたたんで抱えた。ショックだったのかもしれない。叔父は私の知る限りは非常に大人しい人だ。おそらく母が知る限りでもそうで、激しい性格の姉2人が繰り広げる壮絶な喧嘩の向こう側で黙々と掃除しているような人だった、というようなことをよく言っていた。とにかく大人しい人でさ、会社だめになっても、結婚だめになっても、なにも言わなかったわ。77年付き合って初めて知る一面。その重みたるや。

 

看護師と私は協力して座っていた椅子を部屋の外に出す。そうしないと部屋から出られないからだ。

小さな小さな部屋から出ると、ナースステーションの脇に女が2人立っていた。頭にサングラスをのっけた中年女と小さな老婆。目が合って、半拍遅れて意を決したように中年女がこちらに手を振った。従姉妹のリエちゃんだ。実に20年ぶりの再会となる。あちらにも自信がなかったと見えるが、お互いに「中年女と老婆」の組み合わせであるというところで判断したのだろう。その勇気を精一杯肯定するように私も笑顔で手を振った。

 

電話で連絡を取ることはしていたと言う老姉妹は、ごく普通に挨拶をした。リエちゃんの頭にのっかっていたのはサングラスではなく眼鏡だった。叔母・ヨウコに会うのも私は20年振りである。簡単に医者から聞いた経緯を説明する。ヨウコ叔母は母よりもっと縮んでいた。童話に出てくるような小さな小さなおばあさんになっていた。

 

病室に入る許可が出た。6人の患者が詰め込まれた大部屋だ。この状態だけでも密と言えないこともない。コロナ禍の影響で面会できるのは一度に2人までと決まっている。当然ここは老姉妹に権利を譲ることになった。行ってきなよ、と私が言うと、母とヨウコ叔母はひたと寄り添って、ぎゅっと手を繋いだ。

 

小さな丸いふたつの背中を見送りながら、なんとなくこれを、これから起こることを全部どこかに残しておきたいと思った。忘れないうちにここに記す。