骨を砕く①

2021年12月21日 火曜日 晴れ 

 

病院の最寄りとされる在来線の駅はふたつあって、病院はそのどちらからも車を使わなければ厳しい距離にあった。私と同じ路線の、もっとずっと山奥からやってきた母と新宿で待ち合わせて昼食を取り、そこから電車を乗り継ぐ。急行への接続がいまいちで、何度検索しても各駅停車に乗って行くルートしか出てこない。諦めて各駅停車を使うことにした。

平日昼間の下り電車は乗客が少なくて、沿線にいくつかある大学や高校の生徒らしい若者がちらほらのったり降りたりするくらい。座った座席の向かい側の窓から降り注ぐ暖かい太陽光にうとうとしたり、ぽつぽつどうでもいいようなおしゃべりをしながら目的地まで揺られた。

 

「病院の送迎車がある」という母の言葉を頼りにロータリーで停留所を探したが、特にそういった看板などはない。数年前に足を悪くした母を引っ張り回すのもどうかと思ったので、ベンチに座らせてぐるりとロータリーを一周した。駅の階段を降りてすぐに路線バスの停留所。コンビニ、銀行、コージーコーナー、交番、マンション、自転車置き場、タクシーの待合。やっぱりない。張り紙もない。えーどうしよう。タクシーもいない。

一周する間に色とりどりのランドセルを背負った大小の小学生に次々とすれ違った。彼らは皆一様に駅の階段を駆け上がっていく(小学生の移動は走るのが基本)。駅をくぐって線路の向こう側へ帰る子たちなのだろう。駅の中を通るなんてちょっとかっこいいな、と思った。頭の片隅に小学生の頃の私が出てきて羨ましい気持ちになる。14時20分。うちの子供たちももうすぐ下校時刻だ。

ロータリーの反対側のベンチにぽつりと座る母の姿を確かめた。白髪まじりでグレーに見える頭。背中は曲がっていないが大分背が縮んだ気がする。わかりやすく老いた。2年前に股関節の手術をしてから歩くのが少しぎこちなくなって、もう私とは同じ速度では歩けない。「こーんなすっごい」金具をまるっきり壊死した骨と入れ替えてリハビリもして一度は元に戻ったが、今度は膝が悪くなってきたと言う。手術をすれば良いそうだが、病院の大部屋で築かれる入院患者コミュニティが面倒だからギリギリまで我慢したいそうだ。その気持ちはわかる。歩けなくなるとボケるから、本当にやばくなったら手術することにしよう、ということにして、今は毎日ゆっくりゆっくり歩いている。

 

あきらめてタクシーを呼ぶか、と思って、最後にスマートフォンで病院のホームページを開いた。プルダウンメニューから「交通案内」を選択する。「無料送迎バスでご来院の方」という項目があったのでそこまで飛ぶと(タップするとページがずるずるとスクロールした。長い1ページの中でid指定してあるんだな)、どうやら母の言う通り病院が出しているバスが本当にあるらしい。掲載されている時刻表によると、1時間に1本の運行。次は14時半の出発となっている。停留所は今、母が座っているベンチのすぐそばだ。なんだよ張り紙くらいしとけよ。スマートフォンの画面には「14:28」と表示されている。私はロータリーの向こうの母に電話をかけつつ早足で移動した。

 

やってきた「バス」は横っ腹に病院の名前が貼り付けてある白いハイエースで、乗客は私と母の2人だけだった。なんだかがっかりした気持ちで揺られる。反対に母は、住宅街を縫うように走るのを「抜け道、抜け道」と言って嬉しそうにしている。変なことではしゃぐ人だ。抜け道なんかじゃなくて、純粋に正規のルートなのかもしれないじゃないか。

 

たどり着いた病院は枯れ果てた大地の真ん中に建っていた。事前に確認したホームページには、綺麗なグリーンの中にそびえ立つぴかぴかの白い建物が掲載されていたはずだが、あれは夏の畑であったか。畑がまるハゲになってしまうとここには病院以外には道路しかない。「荒涼」とはこのことか、とベージュの大地と灰色の空のツートンを眺めながら思った。

 

この真新しい病院には、叔父が入院している。母を含む三人姉妹の上の兄にあたる。上から95歳、93歳、90歳、77歳の高齢四兄妹。

 

病院施設は全てが新しく清潔だった。天井から吊られたビニールシートに囲まれた受付に母が自分の名前を告げて、叔父を担当しているソーシャルワーカーを呼んでもらう。紺色の、銀行員みたいな制服を着た事務員が後ろをむいて電話かける。しばらくガサゴソと通話相手とやり取りした後、「担当医師の時間が空くまで少しかかるので、待っていてほしい」と告げられた。ソーシャルワーカーと医者、セットで会わなければならないらしい。待ちになるのかぁ、と思ったが、こちらも実はまだ揃うべきメンバーが揃っていない。母と2人、大人しくソファに腰掛けた。

「3時って言ったのに」
母がぼやく。病院に向けてなのか、待ち合わせている従姉妹と上から2番目の叔母に対してなのか。柱にへばりついている掛け時計は15時10分を過ぎようとしている。
「車なんでしょ。混んでるんじゃないの?」
従姉妹と叔母に対しての言葉だと解釈して私は答えた。都内から従姉妹が叔母を乗せて車を運転してくると言う。うーん、と母は不満そうに唸った。せっかちなのだ。昔から待ち合わせの5分前には到着しているタイプの人だった。手持ち無沙汰なので、近くの自動販売機で水とコーヒーを買った。水は私、コーヒーは母に。

 

自動販売機の横の壁一面がガラス張りになっていて、外がよく見える。「ソーシャルディスタンス」と書かれた張り紙があって、パイプ椅子が不自然な間隔で整列している。意図はわかるし、必要な距離なのもわかるが、「不自然である」という気持ちは消えない。「不自然である」ことこそがこのコロナ禍では「自然」になっているということも理解はしている。私たちはそれぞれ隣同士(だけど遠い)パイプ椅子を選んでまた座った。

 

待合にはちらほら人がいる。午後の診療はもう始まっているのだろうか。みんなマスクをして、大人しく座っている。ぼんやりしていると、奥の廊下からやってきた事務員が、受付の前のソファに長いこと取り残されていた青いマフラーを取り上げて「こちら、違いますか?」と聞いてきた。違います、と答えると、また離れた別の待合客に同じことを聞いている。本当に1人ずつ聞いて回るのかそれ。

 

ペットボトルの水を半分ほど飲んだところで、正面玄関から小柄な女性が駆け込んできた。黒いダウンジャケットにリュックサック。白いスニーカー。彼女がキョロキョロと待合を見回すと、母がゆっくりと立ち上がった。目が合う。おずおず、といった風情で彼女はこちらへ近づくと、「イワブチさんでいらっしゃいますか?」と尋ねた。
母は、はい、と答えて、お辞儀をしてからしゃんと背筋を伸ばした。堂々たる佇まい。家を代表する者の風格を見せている。家を出てもうすぐ20年になる現在、母は老い、年金暮らしになり、一人暮らしになり、何かと私が庇護する必要のある存在になったはずなのだが、こういうときに「ちゃんとして見せる」気迫は変わらない。対する私は半歩下がって「娘」となる。条件反射だ。

 

リュックサックの彼女は「介護専門支援員」と名乗った。巨大な名刺を渡される。通常の名刺の2倍くらいある大きさだ。左肩に花のイラストが印刷されており、「F市指定居宅介護支援事業所 サトウ タカコ」とあった。私が大きな名刺を珍しそうに裏表すると、サトウさんは笑って「目のお悪い方にお渡しすることが多いので」と言った。

病院のソーシャルワーカーと名乗る人物も現れ、サトウさんと母と私の4人になる。従姉妹と叔母はまだ到着しない。身内以外、3名以上の面会はできないという。サトウさんはそれを承知していたようで、私たちに事務連絡するためにわざわざこの荒涼とした大地に建つ病院まで来てくれたそうだ。叔父はもうおそらく自宅に戻ることはないので、介護支援契約は解除になっている。レンタルしていた歩行器を今日引き上げたいと言う。こちらの面会が終わったら連絡する約束をすると、サトウさんは来た時と同じように駆け出していった。それほど忙しいのか、それともそもそもそういう移動の仕方をする人なのかは判然としなかった。

 

待てど暮らせど従姉妹と叔母は現れない。痺れを切らした母と私は、面会はともかく先に医者の話だけでも聞いてしまうことにした。

 

ソーシャルワーカーは「イノウエ」と名乗った。白衣を着ていたがお医者さんというわけではなさそうだ。患者の社会的な支援を行うのが仕事内容だそうだが、今ひとつぴんとこない。ひとまず敵か味方かで分けたら味方に入る人なのだろうと判断する。言うことはちゃんと聞いておこう。

ひとつ上の階に案内されると、ナースステーションで面会カードに名前を記入した。すぐに面会できるものと思っていたが、ここでもなぜか待ち時間が発生する。本人に面会する前に主治医が病状を説明したいらしい。病院と役所相手は空白の時間が多数、水玉みたいに存在するように思う。別に急いでいるわけでもないので良いのだが。

 

フロアの共有スペースは円形で、壁にぐるりとソファが備え付けられている。その端の窓際に腰掛ける。ペラペラの入院着を着た患者がちらほら、新聞を読んだり面会に来た人とおしゃべりをしたりしている。本棚には漫画と少し前に流行った小説、それから週刊誌。車椅子の老婆の膝にはピンクの膝掛け。老婆は首を垂らして自分の足元を覗き込んでいる。履いているサンダルを気にしているようだ。灰色の、いわゆる「便所サンダル」と呼ばれる形のものだ。足の甲にあたる太いストラップ部分を爪で擦っている。最初は軽く、だんだん擦る力が強くなって、自分の爪の先を凝視しようとしているのか、頭がぐっと下がる。入院着の上からでも背骨が数えられるほどだ。車椅子って、もしかして前のめりにひっくり返ったりする?

 

危ないのかもしれない、と思った時、老婆の背後から看護師が現れた。ひざまづいて「どうしたの?セロテープくっついちゃってるね」と言って、サンダルから何かを剥がしてやる。つまみあげて2人、にっこりと笑った。病院とはかくも優しい時間の流れる場所なのか。

 

ナースステーションの向こうの廊下から、医者が走ってきた。白衣の下に濃い青色のユニフォーム(テレビドラマで医者がよく着てるやつ。訊いたら『スクラブ』という名称なのだと教えてくれた)、首からぶら下げたIDカードを白衣の胸ポケットに入れている。どこからどう見てもお医者さんだ。我々は看護師に手招きされて、奥の小部屋に通された。パソコンと小さなデスクだけのものすごく狭い部屋だ。母を医者の斜め後ろの椅子に座らせ、私は反対側のドアを開けて、そこから渡された椅子を廊下にはみ出すように置いて腰掛けた。こんな小さい部屋見たことない。医者とパソコンと患者ひとりしか入れないスペース。そこに医者とパソコンと母と私、看護師とソーシャルワーカーが詰め込まれて溢れている。

 

「ええとねえ、イワブチキイチロウさんね、95歳!ね!」
と医者は元気よく言った。パソコンでカルテを見せてくれる。よくわからない。
「直接何が悪いって言うとねえ…不整脈が出てるね!あと、癌ね!前立腺のやつ。あとはねえ、全体的に数値が低いねえ」
はあ、と我々は相槌を打った。医者ははきはきと喋る。
「これが原因、という原因はないね。癌はね、ちょっと治療に来てたんだけど、やめちゃったみたいね。でもその癌が特別悪さしてるかと言ったらそうでもない。今の状態は要するに老衰だね」
ここで母が口を開いた。
「ちょっと前の電話で言ってたんですよ『癌治った』って」
びっくりした。そんなわけないだろう。
「もちろんそんなわけないでしょって言ったんですけどねえ」
ここで先生は、あっはっは、と闊達に笑った。なんとなく、過疎の地の診療所の先生のような笑い方だ(ドラマなどからのイメージ)。「歳で進行も遅かったからね。でもね悪くなったのは癌のせいじゃないよ、老衰」
老衰、を殊更に強調した。そうとしか言えないということなのだろう。95歳。95年間稼働し続けた身体。
母はうんうん、とかすかに頷いてから、わかりました、と言った。
「説明は以上です。会いますか?今寝てるかな。ここ来た時はねー、暴れたりしてたんだけど」
え!と母が大声をあげた。
「暴れたんですか?お兄さんが?」
「そうね。どこだかわからなくて怖かったんじゃない?せん妄出てたし、よくありますよ」
「暴れるなんて信じられない。ものすごい大人しい人で」
「よくあるんですよ。よくあることなんです。みんなそうなるって言っても過言じゃない」
はああ、とため息のような返事をして、母はよろりと立ち上がった。肩にかけていたストールがずるりと滑り落ちるのを受け止めて、しばらくこねくり回していたが、結局折りたたんで抱えた。ショックだったのかもしれない。叔父は私の知る限りは非常に大人しい人だ。おそらく母が知る限りでもそうで、激しい性格の姉2人が繰り広げる壮絶な喧嘩の向こう側で黙々と掃除しているような人だった、というようなことをよく言っていた。とにかく大人しい人でさ、会社だめになっても、結婚だめになっても、なにも言わなかったわ。77年付き合って初めて知る一面。その重みたるや。

 

看護師と私は協力して座っていた椅子を部屋の外に出す。そうしないと部屋から出られないからだ。

小さな小さな部屋から出ると、ナースステーションの脇に女が2人立っていた。頭にサングラスをのっけた中年女と小さな老婆。目が合って、半拍遅れて意を決したように中年女がこちらに手を振った。従姉妹のリエちゃんだ。実に20年ぶりの再会となる。あちらにも自信がなかったと見えるが、お互いに「中年女と老婆」の組み合わせであるというところで判断したのだろう。その勇気を精一杯肯定するように私も笑顔で手を振った。

 

電話で連絡を取ることはしていたと言う老姉妹は、ごく普通に挨拶をした。リエちゃんの頭にのっかっていたのはサングラスではなく眼鏡だった。叔母・ヨウコに会うのも私は20年振りである。簡単に医者から聞いた経緯を説明する。ヨウコ叔母は母よりもっと縮んでいた。童話に出てくるような小さな小さなおばあさんになっていた。

 

病室に入る許可が出た。6人の患者が詰め込まれた大部屋だ。この状態だけでも密と言えないこともない。コロナ禍の影響で面会できるのは一度に2人までと決まっている。当然ここは老姉妹に権利を譲ることになった。行ってきなよ、と私が言うと、母とヨウコ叔母はひたと寄り添って、ぎゅっと手を繋いだ。

 

小さな丸いふたつの背中を見送りながら、なんとなくこれを、これから起こることを全部どこかに残しておきたいと思った。忘れないうちにここに記す。